【私見】佐村河内氏事件にみるアートと市場の関係
全聾の作曲家として有名になった佐村河内守氏。桐朋学園大非常勤講師・新垣隆氏が2月6日、記者会見を開いて彼のゴーストライターを18年間つとめていたと発表、佐村河内氏は人気作曲家から一転、世間からバッシングをあびる「詐欺師」となりました。ことの顛末は新垣氏の記者会見の内容がすべてと思いますので、ここにリンクを張りたいと思います。
BLOGOS 「佐村河内守氏の耳は聴こえていた」新垣隆氏が会見
佐村河内氏に対するバッシングはひどいもので、amazonでは彼の著書や作品に対して激しい反応がみられます。
取材で5年も張り付いて、それも佐村河内の自宅に泊まり込んでいた著者がゴーストライターの存在をまったく知らないはずがない。
金返せ。
NHKで観て、如何わしいと思ったけど、曲は素晴らしいんじゃないかと思って交響曲1番のCDを購入した。感動せず、繰り返し聴く気になれなかったが、あまりにも評価が高く、専門家まで絶賛していたので、自分の音楽の感性のなさを残念に思っていた。まあ、ゴーストライターと金がらみで揉めたりして、頭にきたじゃないかと思うけど、何もこのタイミングで公表することないじゃないか。高橋選手に迷惑がかかるじゃないか。佐村河内もゴーストライターも、本当、身勝手な詐欺師連中だ。
このように、マスコミで取り上げられたために購入してみたが、その後のゴーストライターの件でがっかりした、金返せ、というレビューがあちこちにみられてきました。そのなかで、興味深いレビューがありました。
コアな読書好きの人でなければ、「話題の人が書いた話題の本」ってことで売れる世界。
「美人作家」「美しすぎる●●」なんんてので付加価値がつく世の中ですもん。
同じ曲でも、「誰が」作曲したことで付加価値がつく。
普段はクラシックなんて聞かないのに、「全聾の作曲家の交響曲」なら買ってみようと思う人がいる。
賞品の質ではなく、パッケージで売れ行きが変わる。
このレビューはまさにことの本質をついたものだと感じます。
佐村河内氏の事件に関して、ゴーストライターの新垣氏となぜ18年も共犯関係にあったのか、佐村河内氏に法的な問題はないのか、そうした話題が多々見られますが、上記に引用したレビューのように市場との関係を見ている記事はあまり見かけません。
そして、今回の佐村河内氏の件が浮き彫りにしたのは、そうした「アートと市場の関係」であるように思うのです。
佐村河内氏は全聾であること、被曝二世であることを売りに、作曲家として有名になりました。写真を見ると長髪に髭、サングラスとややワルそうな印象で特徴があり、好みが分かれるにせよ、見栄えのする外見を作っています。
一方の新垣氏は細い体で髪を固め、悪い言い方をすれば「風采の上がらない」外見です。佐村河内氏のような「全聾」だったり「被曝二世」であったり、といったある意味で「分かりやすい背景」もありません。
ゴースト作曲家も、実際力量無いですよ。
と、amazonのレビューにはときおり、楽曲自体がレベルが低い、としているものもみられます。そうした中でも、佐村河内氏のCDが売れ、コンサートに人がつめかけ、マスコミにも取り上げられるようになったのは、ひとえに佐村河内氏が「全聾で被曝二世の」作曲家であったからでしょう。まさにamazonのレビューの遭った通り、「誰がそれを作ったのか」で売れるか売れないかは決まる訳です。
私の友人に非常に良い油絵を描く男がいます。しかし、どんなに良い絵でもなかなか売れないのが現実のようです。ところが一方で、まるで幼稚園児のような雑な絵を描く方もいて、そちらはそこそこ売れているようです。この違いはなにか。まさに「誰が描いたか」がキーなのです。
おそらく、音楽であれ絵であれ、一定水準をクリアしていれば(ものによってはクリアしてすらいなくても)、それが誰の手によるものなのかによって売れるかどうかが決まるのです。残念ながら、作品の質はそこではほとんど問われることがありません。これが、日本のアート市場の現状です。
「良いものさえ作っていれば必ず売れる」
多くの作曲家や絵描きがそういう思いを抱いて日々制作に励み、売れる日を夢見ていることでしょう。ところが、佐村河内氏の事件は「良いものが必ず売れるとは限らない」ということをはっきりと暴き出しました。必要なのは作品の質ではなく、それが誰の手になったものであるのか、その人にはどんな物語があるのか、が「売れるための条件」になっているのです。