ニュースを比較してみるブログ

世にあふれるニュースを報道のされ方を比較、掘り下げていきます。国際、政治、経済を主に取り上げています。やや右寄りの傾向あり。

【私見】“紫陽花革命“ってその後どうなったのだろうか?

ブラジルでのデモのニュースに関連してアラブの春についても、前記事で簡単に書きました。アラブの春の一つだったチュニジアの民主化運動はチュニジアを代表する花になぞらえて「ジャスミン革命」と呼ばれました。

ちょうど昨年の今頃でしょうか。民主党政権下の首相官邸前に原発反対デモが毎週金曜日におしかけていました。たしか永田町の駅が人でいっぱいになり、交通の不便を被った方もいらっしゃったようでした。

日本人がこのように政府に対して声を上げるのは数十年ぶり、として画期的な出来事だと見る向きもありました。私自身、これまで政府に対して「見ないことにして黙る」ことをしてきたことから大きな変化であり、その点は評価すべき点だろうと考えています。

日本人が政府に対して大規模な声を上げる、ということが大きな変化だとして、梅雨時ということとチュニジアジャスミン革命になぞらえ、これらの活動は一部で“紫陽花革命”と呼ばれました。

 

現在でもときおり、反原発でもが各所で行われているのを耳にします。しかし、昨年ほどの勢いはなくなってきているように感じています。特に昨年の衆議院総選挙で民主党が惨敗して以降、反原発デモの声は小さくなってきているように感じます。これを「政府の隠蔽工作」と見ることもできるでしょうし、あるいは「反原発運動が一過性のものにすぎなかった」と見ることもできます。私個人としては、後者の「一過性の流行病のようなもの」という感じがどうも拭えません。

 

しかし「革命」とはほど遠く、「運動」としても発展性を感じません。なぜなら、原発再稼働に対する不安感や不信感以上のものが伝わってこないからです。政治に自らの行動で意思を表明しようとしたことはいいことかもしれませんが、紫陽花(あじさい)が長く美しさを保てないように、情緒だけで広がった運動はやがて消えていきます。しかも、政治の世界で「革命」というのなら権力を奪うという話になりますがひとつの政策への賛否であって違和感があります。実際にチュニジアやエジプトでは政権が崩壊しました。

(アゴラ)

 

結局の所、“紫陽花革命”で何が変わったのか。

たしかに政府に対して声を上げる、デモを行うという手段がある、ということを多くの人に知ってもらうのには良い機会だったでしょう。しかし、それを本当に「革命」と呼ぶほどのものだったのかどうか、アゴラで大西宏さんが書いているように、非常に疑問です。

 

現実を無視し、また再稼働させなかったことによるリスクの発生も織り込んでいない反対運動は、しょせん広がることも影響力も持ちません。暇な学者さんが憲法に保証されていて、どうぞ気軽なピクニック気分で参加してくださいと書いていますが、憤りを感じます。死活問題に直面する人のことも想像できず、ただただデモも自由だというのも自由ですが、それほど非人間的な行為はありません。それならあんたが解決しろと言いたくなります。

(アゴラ)

 

このブログでもときおり指摘していることですが、原発を停止、廃炉にすることはイコール原発保有自治体に「死ね」と言っているようなものです。同様のことを大西さんもより厳しく指摘しています。

福井の敦賀原発の活断層問題では、地元・敦賀市の住民団体から脱原発反対の声があがっています。原発があることで、主な産業のない敦賀市は雇用を確保し、自治体を運営しているのです。即時停止してしまったら、その自治体は消滅してしまうでしょう。そういう事態を反原発派の方たちは地元の方々に対して突きつけることができるのか、問うてみたいところです。

 

また、反原発デモは中核派革マル派などの極左翼が勢力拡大するための絶好の機会となりました。

 

公安調査庁は、2011年(平成23年)の動向として、中核派革マル派などの極左過激派(極左暴力集団)が、反原発運動の高まりを好機と見て反原発を訴えながら活動を活発化させる一方で自派の機関紙やビラを配布するなどの宣伝活動に取り組み勢力拡大を図っているとした。
2011年3月31日には約100人による東京電力に対する抗議デモが行われたが、行進を停滞させるなど、デモの許可条件や警察官の警告に反する違法な先導をしたことから、極左過激派団体(極左暴力集団)の中核派の活動家3人が逮捕された。なお、公安当局によれば6月11日のデモには革マル派中核派などの極左過激派や原水協が後ろ盾にいたという。

Wikipedia「原子力発電所反対デモ」

 

当時、反原発デモに参加しておられた方から「反原発とは全く関係のない連中が大声でがなりたてていてうんざりした」という話を聞きました。極左翼や暴力団、反日団体などが反原発デモに紛れ込み、ビラを配ったり警察と小競り合いを起こしていたそうです。こうした事実を聞くと、反原発デモそのものがうさんくさい、おかしな活動に見えてきてしまうのです。

 

長々となってしまいましたが、最後に一言。

原発デモが大規模に発生したこと自体は、私個人としては評価しています。それは、「多様な意見を社会に対して発信する手段が増えた」という意味において、です。しかし、次第に先鋭化していった反原発派の一部の方々は「自分たちこそ正義」「反原発でなければ人にあらず」といった調子で次第に反原発以外の意見や考え方を認めなくなっていきました。

私自身が反原発デモを評価するのは「多様な意見が認められる社会」になる端緒を見たからです。ところが反原発デモ自身が、多様な意見を認めなくなっていった。もともとは人々の善意から発したもののはずです。しかし、それはやがてファシズムと同じ構図を持つように至ったように、私には見えて仕方がないのです。

 

 

【参考】

「紫陽花(あじさい)革命」という幻想
アゴラ 言論プラットフォーム